人前で率先して一発ギャグやらない面白キャラを許せない

前提として

僕は他人を笑わせるために
自分の身に一つも傷をつけられない人間が好きではない。

というのもここ最近、
自分を傷つけてでも笑わせようという
意気込みのある一般の人間が少ない気がする。

自分を傷つけられない人間が大多数になっているせいで、
人を笑わせるために自分に傷をつける事すらできない人間が
面白キャラと言われている事も多々ある。

こんな流れ、僕は許したくないしあってはならないと思っている。

という訳で、
そんな流れに僕は一石を投じたいと思ってこの記事を書いた。

 

一発ギャグを恥ずかしがってやらない
面白キャラについて

例えば、人前で率先して一発ギャグとかすら
恥ずかしがって出来ない面白キャラがいるとする。

その類いの人間に言いたい事として、「面白キャラ失格である」と。

太宰治の「人間失格」という本があるが、
実際に人前で一発ギャグすらできない人間は
本当の意味で「面白キャラ失格」であるのだ。

そもそも、一発ギャグすら人前で出来ない人間が
面白キャラを名乗ってはいけないし、
そんな人間を面白キャラと持ち上げる人間もどうかと思う。

しかも、恥ずかしいのはその一発ギャグをやった時だけだ。
それに長い目で見れば、
真剣に一発ギャグやらない方が恥ずかしいまである。

これは英語の授業中の発音練習と同じ感じなのだ。
やらないよりやった方がためにもなるしかっこいいのだ。

例えば、余興とかの時に人前で一発ギャグをしてという依頼が来るとする。

その時というのは物凄いチャンスなのだ。
本当に物凄いチャンスなのだ。

何故、人前で一発ギャグをするのが僕の中で良い事とされているか?

答えとしては、ほぼ確定でどこかで笑いが発生させる事ができるからだ。

人前で一発ギャグを真剣にやったらどうなるか?

答えは「周りが助けてくれる」だ。

一見どういう事だよと思うかもしれない。
しかし、本当だ。本当に本当なのだ。

では、真剣な一発ギャグで笑ってもらえる時と
笑ってもらえない時の両方の場合で考えてみよう。

真剣に一発ギャグをやって笑ってもらえたらそれでいい。
これは笑いに繋がっている。

真剣に一発ギャグをやって笑われなかった。
そうなると、いじる素材が一つできたことで
ほぼ確定で周りが弄ってくれる。
そしたら、ほぼ確定でその弄りに笑ってくれる人が出てくる。
これも笑いに繋がっている。

両方の場合の結果で分かる事だが、
どちらに転んでも真剣に一発ギャグをした事で
笑いに繋がる可能性が極めて高いのだ。

他人を必死に笑わせようとしたことのある人間なら
ほぼ確定で笑いに繋がってくれることのありがたさが
身にしみてわかると思う。

実際、ほぼ確定で笑いに繋がってくれるだけですごくありがたいのだ。

ここでは、一発ギャグをする想定で話を進めたが、
一発ギャグの枠はモノマネでも裸芸でもいい。

真剣さが見えれば、それでいいのだ。
真剣さが何より重要なのだ。

話を戻すと、真剣に一発ギャグをやる事でほぼ確定で笑いに繋がるのに
それを恥ずかしいからといって断るような面白キャラがいるとする。

それを断るような人間は、
他人をほぼ確定で笑わせることが出来るという
大きなチャンスを逃しているのだ。
すぐ目の前にチャンスがあるのに。

逃がした魚は大きいという慣用句があるが、
その人間たちは簡単に捕まえることが出来る
巨大な魚を捕まえようとすらしないのだ。

本当に終わっている。この世の終わりなのだ。
こんな人間が面白キャラを名乗りだしたら
言葉通り「ジ・エンド」なのだ。

そんな絶好のチャンスを平気で逃す人間は
「面白キャラ」でも何でもないし、
何なら一般素人以下といわれ続けた僕よりも
面白さの観点では明らかに下とまで思っている。

僕は他人に嘲笑されすぎて「令和の嘲笑王」と呼ばれていた。

その僕ですら、一発ギャグとかの依頼が来たら
真剣に受けていたというのに。

人を笑わせるために自分を傷つける事すらできない人間よりも
自分に傷を入れて人を笑わそうとする僕の方が
評価されないという現実がもう終わっている。
現実世界はとことん終わっているのだ。
もう終焉に向かっているのだ。

最後に、何が言いたいかというと、
他人を笑わせるために自分に傷一つすら入れる事の出来ないような
真剣さとはかけ離れた人間は面白キャラ名乗らないでほしい。

そして、そんな根性なしの人間なんかよりも
僕をもっと評価してほしい、
というかもっと評価しろや!

という事だ。

 

以上である。

 

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リスペクトのない弄りしかできない人間は悪魔である

前提として

僕はこの世で一番嫌いなタイプの人間は
どんなタイプの人間かと聞かれたらこう答える。

「リスペクトのない弄りしかできない人間」が
この世で最も嫌いだと。

本当に嫌いだ。ゴキブリとは比にならない程嫌いだ。

しかし、弄る対象に対して
リスペクト精神を持っていない人間がこの世には山程いる。

実際に僕も人生でほかの人間の何倍も何十倍も
リスペクト精神を感じない弄りを受けている。

そのたびに人間界に絶望している。

この記事ではこのような人間が
何故人間として終わっているのかを書いたので読んでほしい。

 

リスペクトのない弄りしかできない人間が
人間として終わっている理由

1 弄る対象の事を考えていないから

2 弄る対象に拒否権を与えないから

3 不愉快で面白くないから

こういった三つの理由がある。下に詳細があるので読んでほしい。

 

リスペクトのない弄りしかできない人間が
人間として終わっている理由の詳細

1 弄る対象の事を考えていないから

そもそも、リスペクトのない弄りをする人間の思考を推測してほしい。

弄る対象にリスペクトのない弄りをする人間が
弄る対象や周りの事を考えているわけがない。

もっと言うと、自分と自分の取り巻きだけが
笑っていればそれでいいと思っている。

弄るなら弄る対象の事を考えないと
虐めになるのを分かっていないかもしれないが。

そもそも、弄りとは弄る相手にリスペクトを持って
双方が快の気持ちにならなければいけないものなのだ。
それでいて、関係性を築いていないと通用しない代物なのだ。

他人を弄る人間は弄る対象の事を常に考えて、
快の気持ちにさせるようなユーモア等を交えながら
弄らないといけないのだ。

だから、相手への気配りとかリスペクトとか関係性が
何より重要になってくるのだ。

しかし、リスペクトのない弄りをする人間は
相手への気配りとかを度外視にして弄ってくるのだ。

弄りに大切なものを度外視にされた弄りを受ける側は
弄られている自分へのリスペクト精神が欠けているのが
すぐに分かってしまうものだ。

まあ、弄る対象にすらリスペクトしない人間が
この行為の事を万死に値する事だとは思わないのだろうけど。

実際、弄る対象にリスペクトを持たない人間は
人類を冒涜しているといっても過言ではない。

何が言いたいかというと、
相手の事を考えられない人間が
本当の意味での弄りなんて出来る訳がないという事だ。

そんな人間はもう二度と人を弄らないでくれ。

 

2 弄る対象に拒否権を与えないから

これは意外かもしれないが、
リスペクトのない弄りをする人間に限って
弄られている側に拒否権を持たせない。

何故かというと、上でも挙げたことだが、
弄る側は自分と自分の取り巻きが面白ければ
それで良いと思っているからだ。

では、どのようにして弄る側の人間は
弄りに拒否権を与えないようにしているのかをまとめてみた。

一番多い手段が大人数で弄る事だ。
これは弄る側の意見を大多数にする事で
弄りに拒否権を与えないようにしている。

次に多い手段が弄る側に抵抗させない事だ。
これは弄られる人間を力でねじ伏せる事で
拒否権を与えないようにしている。

手口としてはこんな感じだ。
やっている事はまんま独裁者と同じなのだ。規模が違うだけで。

次に、何故、弄る対象に拒否権を与えないと
道徳的に良くないのかをまとめてみた。

答えとしては
「弄る側に力が偏って暴走することが出来てしまうから」だ。

弄られる側に拒否権を与えないという事は
弄る側に全部の権力を渡しているという事と同義なのだ。

そうなると当然、弄る側に力が偏る。

二つの人間関係の一方に力が偏ると力を持った方が暴走する。

弄る側の人間が暴走するとどうなるかというと、
道徳とかを完全に無視した弄りが横行する。
そこに基本的人権なんて概念はあるわけない。

弱い立場の人間に拒否権を与えないとか絶対王政かよ。
絶対王政の方がマシまである。
とにかく考え方が古すぎる。白亜紀かよ。

我らは令和を生きる人間であるのだから、
弄る側に拒否権くらい与えるべきだ。

 

3 不愉快で面白くないから

弄りに相手へのリスペクトや弄りの拒否権を与えないというところから
分かると思うがそんな弄りは不愉快である。

そもそも面白さというのは
相手を快の気持ちにさせて初めて成り立つものだ。

不愉快さと面白さは日本とブラジルくらい対極の位置にあると言える。

とにかく、リスペクトのない弄りは不愉快だし、面白い訳がないのだ。

しかも、リスペクトのない弄りをする人間に限って
ユーモアセンスというかギャグセンスというかが欠けているのだ。

考えてみればその通りで、
本当に面白い人間だったら相手にリスペクトを持っている。

リスペクトを持っているから
相手の事をよく見て適切な弄りやツッコミ等の行動ができるのだ。

ユーモアセンスがない人間が
リスペクトに欠けた拒否権のない弄りをするところを
想像してみてほしい。

弄る対象にリスペクトが無い時点でなかなかに終わっているのに、
ユーモアセンスがないから場の空気を悪くする一方だ。
そんな弄りに更に拒否権が無いとなると、
地獄という言葉で形容する他なくなる。
言葉通り、地獄なのだ。

そんな地獄のような弄りをする人間に限って、
本人は面白いと思って弄っている。
無知の知をいう言葉を知らないのだろうか。

何が言いたいかというと、
弄る相手にリスペクトを持てない時点で
他人を弄る資質が無いのだから大人しくしておけという事だ。

そんな人間は二度と俺を弄るな。
はっきり言って、不愉快だし面白さのかけらもない。
さようなら。

 

最後に

弄る対象にリスペクトの一つすら持てない人間程、
自分の事を面白いと思っていることが多い。

無知の知の境地すら達していない人間が面白い訳がない。

はっきり言って、
現実世界はとことん歪んでいると言ってしまって差し支えない。
この世界は歪んでいる。

弄る対象にリスペクトを持てない人間は
人間全体の幸福のために大人しくしてほしい。

何故なら、リスペクトのない弄りしかできない人間は
悪魔どころか破壊神と同じくらい平穏な世界を壊すから。

僕は心の底からこんな人間を増やさないで欲しいと思っている。
本当に増えないでくれ。

頼む。頼む。頼む。くわばら、くわばら。

 

以上である。

 

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面白さが人生で一番重要ではない件について 結論 命が一番重要

結論 生きる上で命が一番重要です

 

前提として

何故、このタイトルの記事を書いたかという事を下にまとめた。

僕は道化にならないと存在価値がないと思っているあまり、
寿命が削れることを度外視にして面白さを追求している節がある。

しかし、生きていく上で面白さよりも大切なものが
山ほどあるのではないかと考えるようになったのだ。

今回は面白さの存在意義や面白さより重要な事を自分なりにまとめてみた。

 

面白さの存在意義

面白さの存在意義について考えをまとめてみた。

そもそも、面白さとは生きやすくするためにあるものと思っている。

あくまでも、生きやすくするためにあるという事だ。

もう少し踏み込んでいくと、
面白いとユーモアなどを用いる等の力によって人を笑わせる事ができる。

面白さの効用としてはその人を笑わすことが出来る力を利用して、
双方が幸せな人間関係を円滑にすることが出来るという効果があると思っている。

その人間関係が円滑になるという効果によって、
助け合いの精神が深まったり、
困ったときに助けてもらえたり、
孤独で苦しむことが少なくなる
という大きな産物を手に入れられるのだ。

上にも書いてあるように、
面白さとは本当に生きやすくするためにあるのは事実である。

しかし、面白さなんて心身の健康や命が無いと
元も子も無くなるというのも事実なのだ。

このような流れで僕の中で面白さとは
生きやすくするためにあるというだけのものだという結論に至った。

 

面白さより重要な事

面白さよりもっと大切なものがあるという結論に至ったので
それを話していこうと思う。

そもそも上でも挙げさせてもらった通り、
面白さとはあくまでも「生きやすくするためのもの」なだけである。

ここからは「生きやすくするためのもの」より大切なものについて迫っていきたい。

「生きやすくするためのもの」より
「生きる上で必要なもの」が生きていく上で大切だ。

何故なら、「生きやすくするためのもの」は0から+にするためのものであり、
「生きる上で必要なもの」は-から0にするためのものであるからだ。

当然だが、数の大小の関係として、
大きくなるにつれ右になる構図だと「-→0→+」という構図になるのだ。

-が+になるには、-は0を超える必要があるのだ。

何が言いたいかというと、
「生きやすくするためのもの」より「生きる上で必要なもの」が
生きていく上で大切だと言いたいのだ。

「生きる上で必要なもの」の代表例として、心身の健康が挙げられる。

結局、「生きやすくするためのもの」の代表例として挙げた面白さなんかも、
心身の健康などの「生きる上で必要なもの」の上に成り立っているのだ。

心身の健康状態が悪いと、
面白さがどうとかこうとかなんて言っている暇なんてないのだ。

なぜなら、面白さより心身の健康の方が明らかに重要だからだ。

こんなこと言ったら、面白さを売っている芸人とかに怒られるかもしれない。

しかし、これは事実なのだ。

例えば、精神状態が悪いと面白い事を思いつく事を考えるための余裕がなくなる。
身体状態が悪いと面白い事をするための体力の余裕がなくなる。

こんな感じで、健康状態が悪いと面白くなくなるのだ。

だからこそ、「生きやすくするためのもの」より
「生きる上で必要なもの」が重要なのだ。

そして、「生きる上で必要なもの」より重要であり、人生で一番重要なものがある。

それこそが「命」だ。

結局、「命」が無いと「生きる上で必要なもの」なんて概念は生まれないのだ。

例えば、「生きる上で必要なもの」の代表例の健康状態なんてものは
命がないと成り立たない。

それこそ「生きやすくするためのもの」の代表例の面白さなんてものは
命がないと成り立つわけがないのだ。

何故なら、命が無いという事はそもそも生きやすくとか
生きるために必要とかを言えるような次元に達していないという事だからだ。

そもそも、命が無いという事は当たり前のことだが、
生きていないから健康云々面白さ云々とかそんな概念が無いのだ。

何が言いたいかというと、
命があっての健康であり、健康があっての面白さという事を言いたいのだ。

 

最後に

僕は上に書いてあるような事を考えるようになった瞬間に、
命を削って道化を演じている自分がいかに愚かだという事を知らされた。

僕はもう二度と命を削るという愚かな所業はしたくない。

この記事を見て下さった皆さんに言いたい事がある。

それは「命あっての人生」という事実を忘れないでほしいという事だ。

「命あっての人生」

 

以上です。

 

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他人を虐める人間は面白くない理論 ~虐めのつまらなさについて~

前提として

ここでは虐めの良し悪しについては語らない。

何故なら、虐めは明らかに悪いことだし色々な人が正論を言っているから。

今回は虐めが如何につまらないかといった内容について話していきたいと思う。

 

虐めのつまらなさについて

今回は言いたい事が3つある。
言いたい事が下に箇条書きにしてあるから読んでほしい。

1 虐めはそもそもネタとして成立していない事

2 虐めをしているうちはまだまだ面白くないという事

3 虐めをする人間は受ける側にギャラを払えという事

の3つだ。この3つはずっと言いたかったことだ。

虐めのつまらなさについての詳細

1 虐めはそもそもネタとして成立していない事

そもそも、虐めという言葉が表している通りに、
虐めは虐められている側にリスペクトが全くない。

ネタとして成立する条件として、
弄りをする側が弄りを受ける側へのリスペクトを
持っていないといけないという条件がある。

この条件なんて、ネタをする上で基礎中の基礎の条件なのだ。

虐めという名前の基礎中の基礎を忘れているやり取りなんて、
ネタという高度なやり取りを名乗る資格がないのだ。

虐めはネタとして面白い面白くないという以前にネタとして成立してないのだ。

虐めはネタとして成り立っていないから、当然のことながら面白い訳がない。

しかも、虐めの行為によっては立派な犯罪に平気でなりうる。

そうなると、ネタとして成立する条件の
最低限のモラルを守るといった条件すら守れていない事になる。

そもそもネタは人を快い気持ちするものなのに、
虐めはその逆の不快な気持ちにしているのだ。

人を快い気持ちにさせるネタとは真逆の人を不快な気持ちさせる虐め
という構図が出来上がる。

人の快の気持ちの観点から見ると、実はネタと虐めは実は真逆なのだ。

何が言いたいかというと、
虐めはネタとして成立する最低限の条件を満たしていない。
それどころか、虐めという行為は
人を快の気持ちにさせるネタとは対極の存在にあるという事だ。

2 虐めをしているうちはまだまだ面白くないという事

上にも書かせてもらったように、
虐めをしているうちはネタが成立する最低条件すら分かっていないという事になる。

虐めをしている人間に、ネタが成立する最低条件の
弄りを受ける側へのリスペクトを持つという事も
最低限のモラルを守るという事も出来るはずがない。

何故なら、虐めをしている人間はネタの根本すら分かっていないから。

そもそも、本当に面白い人間は虐めなんてしない。

そう言える根拠として、幾つかある。

先ず、弄る事のリスペクトや最低限のモラルを守る事の重要性が
身に染みて分かっているからだ。

次に、弄っている回数も弄られている回数も多いから
弄りと虐めの境界線が明確に見えるからだ。

最後に、面白い人間がネタという名前の高度なやり取りを
幾度となく成功させているからだ。

対して、何回も言っているように、
虐めをしている人間はそもそものネタの根本となる
弄る事のリスペクトや最低限のモラルを守る事の重要性が分からない。

だから、弄りと虐めの境界線なんて分かるはずがないし、
ネタという高度なやり取りなんて成功させられるはずがないのだ。

何が言いたいかというと、虐めをしている時点でネタの根本が分かっていない。
だから、虐めをしている人間が面白い訳がないという事だ。

3 虐めをする人間は受ける側にギャラを払えという事

僕は虐めをする人間は虐めを受ける側の人間に
ギャラを請求されてもおかしくないと思っている。

何故なら、虐めを受ける側の労力を考えると
お金が発生してもおかしくないくらい大変だからだ。

例えば、ドッキリ系の番組がなぜ許されているかを考えよう。

ドッキリ番組の内容を素人が何も裏側の事を考慮せずにやると虐めになる。

しかし、ドッキリ系の番組はドッキリをする事が虐めにならない。

その理由を自分なりにまとめてみた。

一つ目は、台本の内容をドッキリを受ける側の人間に
事前に伝えていて了解も貰っているから。

二つ目は、ドッキリを遂行する時に色々なものに配慮しているから。

最後に、ドッキリを受ける側にギャラが発生しているから。

理由は主にこの三つだと思う。

これをまとめると、
了解を貰っている事、配慮がある事、ギャラが発生している事。

これらの理由によって、ドッキリ系番組が許されている。

反対に、虐めはどうだろう。

先ず、虐めを受ける側の了解は貰っていない。
次に、受ける側の配慮もない。
最後に、ギャラも発生していない。

ドッキリ系の番組が許されている理由の要素が虐めには全くない。

僕は虐めする人間は虐めを受けている人間に対して、
億単位の対価を払えとまで思っている。

せめて、虐めを受けた側に口止め料くらい払えと言いたい。

何が言いたいかというと、虐めは許されないからするな。

 

最後に

虐めは道徳的に悪い事だからするなという意見が多い。

しかし、虐めは道徳的な観点以外の観点で見ても
悪いからするなというのが正しい意見だと思う。

ここの記事では、虐めは面白さ云々の問題ではないくらい
ネタとして成立していなくて見ていて寒いから
今すぐにやめろと言いたいのだ。

僕は虐めている人間は虐めを受けている人間に
謝罪の言葉と共に億単位の金を対価として払うべきとまで思っている。

最後に言いたい事として、虐めはするな、デメリットしかないぞ。

 

以上です。

 

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僕の大好きな極上の一人遊びについて ~空想の相手との会話編~

僕は昔から友達が少なく、遊ぶ機会もほとんど無かった。

それに一人っ子でいとこも一人もいなかった。

父親は仕事で忙しく、母親は僕の事を否定し続けるので会話も少なかった。

しかも、学校内でも腫れもの扱いされていた。

当時の僕は人間関係において八方塞がりだったのだ。

そんな中、僕はある一つの究極的な一人遊びを思いついてしまったのである。

その究極的な一人遊びこそが「空想の相手との会話」だったのだ。

因みにこれを思いついたのは僕が小学生の頃だった。

この遊びはお金も要らないし、友達も要らない。

だから、友達もお金もほとんど無かった僕には好都合だったのだ。

これを思いついたときに僕は自分の事を誇張抜きで
アインシュタイン以上の天才なのではないかと思った。

しかも、空想の相手と会話することで
会話の練度が上がるというおまけつきだというのだから驚きだ。

発達障害を持っていて会話が苦手だった当時の僕にとっては、
空想の相手と会話する事こそが極上の遊びだったと言える。

それに気が付いてから、
僕は現実から目を背けてずっと空想の相手と会話をして
時間を過ごしてきたのだ。

時間で言うと、
ゲームのプレイ時間がカンストする1000時間を
ゆうに超えるくらいには空想の相手と過ごして、
空想の相手とずっと会話していたのだ。

空想の人間関係はリアルのよりも人間関係が煩わしくないし、
罵倒も少ないような優しい世界なのだ。

要は、僕にとって現実世界という砂漠の中に
空想世界というオアシスがあるような感じなのだ。

そして、実際に空想の相手との会話を10年以上続けたら、
リアルでコミュニケーションを取れなかった僕も
リアルでコミュニケーションを取ることが出来たのだ。

僕は空想でも現実でも会話ができるようになったのだ。

この遊びを極めると、いつでもどこでも人間と会話できるのだ。

いつでもどこでも人間と会話できることのメリットとして、
地球が滅亡して一人だけ生き残った時にすごく助かる事が挙げられる。
なぜなら、孤独に対して耐性ができるからだ

僕は空想の人間にすら本気の会話ができない人間が
本物の人間に会話なんてできるわけがないと思っている。

僕の経験だと、一が万事で空想の人物に対して本気で会話しない人間は
本物の人間にも本気で会話をしない事が多い。

空想の人物との会話で学ぶことは
どれを取ってもリアルの会話で大事になってくる。

だからこそ、この遊びが会話術を鍛える上でも極上の遊びだと言える。

僕は空想の人間と10年以上ずっと会話する習慣をつけている。

すると、言葉遊びも上手くなってくるし、
リアクションを取る力が増える。

そして、何より一対一の会話なら
基本的にどんな場面でも対応ができるようになるのだ。

ここまでくると親の声より空想の人物の声を聴いている感じになるし、
空想の人物に愛されているのではないかと思う。

そうして、今でも僕は一人の苦痛な時間も
人とコミュニケーションができないという悩みも
「空想の相手との会話」で乗り切っているのである。

 

最後に空想の人間と会話する方法とその時のコツを伝えていく。

空想の相手と会話する方法としては、以下のようになる。

1 思い浮かべる空想の人物を決める事。

→ある程度どのようなスタンスで会話をするかを決める。

2 実際に頭の中に空想の人物を召喚する。

→しっかり頭の中に空想の人物をとどめておく事。空想の人物はすぐに逃げるから。

3 実際にその空想の人物と話す。

→・リアクションを取る事を恥ずかしがることはあってはならない。

 ・相手の行動を予測してそれにそぐわない事を言ってしまったら反省をすること。

といった流れで会話するのだ。いたってシンプルだ。

 

という訳で、皆さんも「空想の相手との会話」で孤独の時間を乗り切ってください。

全ての孤独を感じる人間に幸あれ。以上です。

 

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発達障害の人間だからこそ、あか抜ける必要性があるというお話

前提として

発達障害を持っていると集団の中で何かと浮いてしまうし、
下に見られてしまうことが多い。

その理由として、
発達障害の人間の多くが毒親問題や多数派との感性のズレといった理由で
あか抜けられないからというのが一つあると思う。

しかし、あか抜ける事で上に挙げた不利益を被ることが少なくなると思う。

ここでは、
「あか抜ける事」の目標を「見た目で嫌われないようになる事」とする。

見た目は一見すると先天的な要素が大きいと思いがちだが、
あか抜けの観点から見ると実は先天的な要素よりも
後天的な要素が大きいのではないかと感じる事が多々ある。

後天的な要素が大きいという事は裏を返すと
努力でどうにかなる事が多いという事だ。

あか抜ける方法は「あか抜け 方法」とかで
検索をかけて貰えばいくらでも出てくるので、
今回はあか抜ける必要性について説明していく。
自分より明らかにあか抜ける方法に詳しい人間が記事を書いてあるから。

では、本題の発達障害の人間があか抜けることの必要性」について話していく。

 

発達障害の人間だからこそあか抜ける事の必要性

目次

1 嫌われる回数自体が少なくなる事

2 成功体験ができて自信が付く事

3 憂鬱な気持ちに耐性ができる事

 

解説

1 嫌われる回数自体が少なくなる事

これはガチです。

上にも書いてある通り、
ここでの「あか抜ける事」は「見た目で嫌われないようになる事」
としている事を理解してもらいたい。

あか抜けることが出来れば、嫌われる回数自体が減る理由を説明していく。

そもそも、あか抜ける事が出来れば、
「野暮ったい」という嫌われる要素が一つ消えるからだ。

「人は見た目じゃない。」という綺麗事があるが、やはり見た目は重要だ。

何故なら、見た目は第一印象に大きく関わるからだ。

第一印象が良くないと性格などの中身がどれだけ良くても、
中身を見てもらえないどころか、
当たり前のように他人に嫌われることだってあるのだ。

見た目が悪いと、
それだけで中身を見てくれる人は少なくなるから
当然の事だがチャンスは少なくなる。

それどころか、他人に嫌われるという事は実害が出るという事だ。

最悪の場合、見た目のせいでチャンスがないどころか実害が出るとする。
そうなると、悪い見た目のせいでマイナスになってしまうのだ。

逆に、見た目が良ければ、
それだけで中身を見てもらえる回数が増えるから
当然の事だがチャンスは多くなる。

しかも、「あか抜けている」という好かれる要素があるという事で、
人に好かれる事で幸せなことが格段に増えるのだ。

例えば、発達障害を持っていると特性のせいで何かと嫌われる事が多いと思う。

しかし、見た目が良ければ嫌われる要素を
物理的に一つ減らせるどころか、
「あか抜けている」という長所ができる事で
発達障害の特性の嫌われる要素を見逃してもらえて好かれることだってあるのだ。

とにかく、見た目が良ければ
発達障害を持っていたってチャンスの絶対数が増えるのだ。

そうなると、
特性からくる困りごとを周りが助けてくれるチャンスが増えて
周りから助けてもらえる回数が明らかに増えるのだ。

発達障害の人間は健常者の人間よりも
人に助けてもらわないといけない回数が多い。

だからこそ、見た目を良くしておく必要があるのだ。

何が言いたいかというと、
見た目は正の方向にも負の方向にも
印象を変える強大な力を持っているのだ。

だから、発達障害を持っている人間こそ見た目を良くする事、
即ち、あか抜ける事が重要なのだ。

2 成功体験ができて自信が付く事

あか抜ける事が出来れば、
「あか抜けることが出来た」というその事実が成功体験となる。
即ち、成功体験が一つできる。

そうなると、成功体験ができる事で必然的に自信が付く。
それも強大な自信が付く。

何故なら、あか抜ける事は一朝一夕で出来るような簡単な事ではないから。
だからこそ、強大な自信が付くのだ。

自信が付くと今度はほかの事にも挑戦したり、
更にあか抜ける努力を進んでしたりするようなエネルギーが湧いてくる。

そして、もう一回努力して結果が出て、成功体験がまた一つ増える。

この流れを一度でも自分主体で作った人間はとても強い。

なぜなら、この流れを崩しさえしなければ
無限に成功体験を積み重ねることが出来るし、
仮に流れを崩してしまっても
立て直す方法を知っている事で
また成功体験を積み重ねる事が出来るからだ。

発達障害を持っていると特性の影響で理不尽に怒られる事も多く、
それにより自信を無くしている人も多い。

しかし、あか抜ける事が出来れば、成功体験が出来て強大な自信が付く。

勘違いされることも多いだろうけど、
最低限のあか抜ける方法は割と理論に基づいる事が多く、
その理論に従って行動できればあか抜ける事が出来る事も多いのだ。
その理論はネットで調べればいくらでも出てくるから、
沢山の情報から取捨選択してほしい。

だから、意外と発達障害があっても
発達障害単体があか抜ける事の足かせにならないのだ。

しかも、あか抜ける事は現状よりも人に好かれるというおまけつきだ。

自信を無くしている人は沢山の失敗体験があって、
何かに挑戦するというエネルギー自体が少なくなっている事が多い。

そんな中、「あか抜けることが出来た」という成功体験ができるとする。

すると、何かを挑戦するというエネルギーが出てきていい流れができる。

何が言いたいかというと、
「あか抜ける事ができた」という成功体験は強大な良い流れを作っていく。

だから、発達障害を持っている人間こそ見た目を良くする事、
即ち、あか抜ける事が重要なのだ。

3 憂鬱な気持ちに耐性ができる事

これはいくつかの理由があるのでそれを説明していきたいと思います。

憂鬱な気持ちに耐性が付く理由

・あか抜けて見た目が良くなることで気分が上がるから

・寝巻きから着替える事が習慣化して生活リズムが安定するから

今回はこの二つについて解説していく。

「あか抜けて見た目が良くなることで気分が上がるから」を解説

この構図は単純明快である。

何故なら、見た目が良くなることで周りに褒められる事が増える。

そして、自分の見た目の良さに気づけたりする

そうなると、当然のことだが自信が付く。

自信が付くから気分が上がってくる。

そして、憂鬱な気持ちに耐性ができる。

といった構図ができるのだ。

このようにして、常に気分の平均値を上げる事によって、
直接的なアプローチで憂鬱な気持ちに耐性をつける事が出来るのだ。

「寝巻きから着替える事が習慣化して生活リズムが安定するから」を解説

あか抜けることに成功すると、その後も服装に気を遣う事が習慣になる。

そうなると、朝起きてすぐに
寝巻きから活動している時の私服に着替える事が習慣になる。

寝巻きから私服に着替えるとその瞬間から活動的になる。

朝起きてから私服に着替えると生活リズムが安定する。

そして、憂鬱な気持ちに耐性ができる。

といった構図ができるのだ。

このようにして、生活リズムを安定させる事によって、
間接的なアプローチで憂鬱な気持ちに耐性をつける事が出来るのだ。

発達障害を持った人間は憂鬱な気持ちになりやすい。

だからこそ、憂鬱な気持ちに耐性をつける事が凄く大切なのだ。

最後に

この記事を読んで、
発達障害の人間だからこそあか抜ける必要性があることを学んだと思う。

必要性を学んだら
「あか抜け 方法」とか「あか抜ける方法」とかのワードで検索してほしい。

検索したら、ネット記事の情報を取捨選択して
あか抜けるための知識を入れてほしい。

知識を入れたら、あか抜けるための行動を実行してほしい。

実行することで色々な事が見えてくるはず。

 

 

全ての発達障害持ちの人間に幸あれ。

 

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道化歴5年の僕が暗く静かな笑いに必要な事を考察してみた

暗くて静かな笑い、シュールな笑いで必要な事

1 空気感を読む

2 言葉を言う間合いを読む

3 1,2を踏まえて最適なワードをひねり出す

4 真剣さは忘れずに

 

前提として

笑いは全体を通して、繊細さから生まれるものだと僕は思う。

とくに暗いシュールなお笑いは空気感、間、ワードのインパクト、話す強さ
とかの要素が一つでも崩れると笑わせることができない。

それゆえ、その繊細さが美しいと感じて自分なりに研究した。

大前提だが、感覚で分からないと笑いを取れない。

しかし、理論がないと感覚がずれた時に修正がしにくくなる。

というわけで、本題に迫っていこう。

 

1 空気感を読む

先ずは、空気感を読む。そして相手との関係性を読む。

とにかく、TPO(時、場所、場合)に合わせてふるまわなければならない。

これは笑わせるときに一番気を付けないといけない。

例えば、空気感の話だと、
明るい雰囲気の時に暗い話題が出たら雰囲気を壊すし、
暗い雰囲気の時に場にそぐわない発言をしたらそれも良くない。

そして、相手との関係性や相手の気質を読むという話だと、
仲の良い友人に通じたいじりが仲良くもない老害
同じいじりをしたところでお互いが幸せにならない。
同じくらい仲の良い友人でも繊細な人にはいじるにしても
相手に不愉快にならないようないじりをしなければならない。

とにかく、この手の笑いは繊細だから空気感をとにかく読まないといけない。

 

2 言葉を言う間合いを読む

空気感を見極めたら今度は間合いを読まなければならない。

同じ言葉を言うにしたって、
言葉の強さ、イントネーション、間合いなど
どれかが一つ変わるだけで印象はガラリと変わるものだ。

例えば、言葉の強さだと、
「お前!この野郎!!!」って言うのと
「おまえこのやろう♪」って言うのとでは印象が全然違う。

イントネーションだと、敢えてイントネーションを外すだけで
緩和が生まれて笑いに繋がることもある。

間合いでいうと、
会話のボケとかツッコミだと基本的には早いほうが良い事が多いし、
逆に会話のオチはオチが強いものほど間を開けるのがいい事が多い。

とにかく、前提としてのところに書いてあるようにこの手の笑いは特に繊細だ。

だからこそ、細部までこだわりたい。

 

3 1と2を踏まえて最適なワードをひねり出す

上にも書いてある通り、空気感や間合い管理はできていることが前提となる。

言葉選びで重要になってくることを
箇条書きにして下にまとめてみたので見てほしい。

言葉選びで重要になってくること

  • 単語単体の威力
  • 単語と単語の相性
  • 表現の発想の豊かさ
  • 分かりやすさ

これを踏まえたうえで例を挙げてみよう。

例えば、「大仏に縮毛矯正してみた」とか「耳から金塊が出てきた」とか
「ヤングコーンで剣道する」とかの表現があるとする。

  •  単語単体の威力の観点だと、
    「大仏」だとか「金塊」だとかの単体で
    規模の大きな単語など威力の高いワードを入れると
    単純にワードのパワーが出るのでおすすめだ。
  •  単語と単語の相性の観点だと、
    「大仏と縮毛矯正」、「耳と金塊」、「ヤングコーンと剣道」とかの
    一見思いつかないような表現とかを使うと
    単語同士のパワーが高くなるのでおすすめだ。
  •  表現の発想の豊かさの観点だと、
    例えば、布団という単語があるとする。
    すると、「布団で寝る」や「布団を畳む」というのが一般的だ。
    表現が一般的すぎると面白さは伝わらない。
    だから、発想力が求められる。
  •  分かりやすさの観点だと、
    「大仏」も「縮毛矯正」も「耳」も「金塊」も割とメジャーな単語だ。
    マイナーすぎる単語を使うと伝わる人が少なくなるので注意。

4 真剣さを忘れずに

上記の1、2、3の事が出来ていてもやはり真剣さがないことには面白くならない。

例えば、一発ギャグとかでも真剣にやらない奴は面白くないのは世間の総意だ。

とにかく、表現することに真剣になることで何かが見えてくるはずです。

「気合いだ!気合いだ!気合いだぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」の
メンタリティーは本当に重要だ。

 

最後に

確かに表現技法も大事だが一番大事なのはやはり真剣さだと思う。

僕は真剣さに勝る表現力なしだと本気で思っている。

なぜなら、真剣さがないとどんなに面白いことを言ったとしても、行動をしたとしても、真剣な奴が同じことをやったら明らかに面白さでは負ける。

逆に、面白くないことを言っていて、面白くない行動をしていてもそいつが真剣ならその熱意を感じて誰かが笑い飛ばしてくれることも多々ある。

少なくとも自分はそう思う。

だから、だから人を笑わせようとするなら恥ずかしがらずに真剣に笑わせよう。

 

気合いだ!気合いだ!気合いだ!

 

以上です。最後まで目を通して下さり有難う御座いました。

 

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